「一直線」な商店街
JR金沢駅方面から長町武家屋敷跡方面へと抜ける、400mのまっすぐな石畳の道。この道の両側が玉川町通り商店街で、花屋、時計屋、洋菓子屋、洋服屋、金物屋、薬局、歯科医院、スナック、小料理屋などが軒を連ねています。ここは江戸時代、武家屋敷が建ち並び、明治期以降、金沢駅近辺と市中心部を結ぶ商店街としての歴史を刻んできました。そんな玉川町通り商店街の歩みを紐解いてみましょう。
近代工業発祥の地に通じる商店街として発展
江戸時代、玉川町通り商店街のあたりには、加賀藩の年寄(家老)である加賀八家(かがはっか)の一つ長(ちょう)家の下屋敷をはじめとする武家屋敷が建ち並んでいました。現在の金沢市立玉川図書館の一部と玉川公園、三谷産業敷地には長家の上屋敷、現在の市立中央小学校の敷地には加賀八家の一つ村井家の上屋敷がありました。
明治時代を迎えて長家上屋敷の跡地には日本専売公社金沢地方局、日本硬質陶器(現ニッコー)の工場、村井家上屋敷の跡地には金沢製糸場が建ち、同製糸場は明治期に閉鎖されますが、大正時代にその跡地に倉庫精練が建ちます。このあたりは金沢の近代工業発祥の地となったのです。
明治31年(1898)には金沢駅が開業し、玉川町通りは、駅近辺と工場立地で活気づく市中心部を結ぶ商店街として歩み始めました。硬質陶器が昭和38年(1963)、専売公社が昭和53年(1978)、倉庫精練が昭和54年(1979)に移転するまで、このあたりはまさに金沢の工業地帯でした。
「洋服を買うなら玉川町で」
日本専売公社、日本硬質陶器、倉庫精練が近くにあった頃、玉川町通り商店街は、そうした企業や官公庁と金沢駅を朝夕に行き来する通勤ストリートでした。昭和50年代初頭まで、その通勤者や近隣の市街地から訪れる客で玉川町商店街は市内でもトップクラスの賑わいを見せました。紳士服を中心とした洋服店は20軒近くあり、「洋服を買うなら玉川町で」と言われるほどでした。金物、陶磁器、洋菓子、時計、電気器具、鮮魚、青果、歯科医院、理容室など店舗の種類が多いのも特徴で、日常生活に必要なものは何でも揃いました。
活気を呼んだ「一直線まつり」
昭和50年代半ば以降は、郊外に相次いで出店した大型店の影響を受ける中、商店街に活気を呼ぶさまざまな努力が続けられました。特に昭和62年(1987)にスタートした「一直線まつり」は、通りを歩行者天国にしてミニSLを走らせ、大勢の親子連れに喜ばれました。ほかにも、商店街の入口にアーチ看板を設けたり、通りを石畳にしたりと、さまざまな工夫を凝らし、魅力向上に努めてきました。
まちとともに歩み続ける
平成20年(2008)には、日本たばこ産業金沢支店(旧日本専売公社金沢支店)の建物を利用した「金沢市立玉川こども図書館」がオープン。隣接の玉川公園と併せ、子どもたちの元気な声が響く「親子づれにやさしいまち」としての顔も持つようになりました。
平成27年(2015)に北陸新幹線が金沢開業してからは、金沢駅から市中心部へ向かう大勢の観光客の足音が響くようになりました。かつて「住民の通勤ルート」だった商店街は、「観光客の回遊ルート」へと変貌を遂げたのです。現在、中央地区の教育施設再整備のため、こども図書館は閉館し、数年後に新たな施設として生まれ変わる予定です。商店街にも大きな変化が生まれるかもしれません。
藩政時代から明治、大正、昭和、平成と、まちの変遷を見つめてきた玉川町通り商店街。令和の時代も、ずっとこのまちとともに歩んでいきます。